アランの幸福論







「幸福論」アラン著作

■本の構成

この作品は幸福というテーマで短いコラム形式で成り立ち、93編から作られている。
時代は第一次世界大戦ぐらいを背景にしたもので、パリの高校教師が書い た作品である。

幸福論は身近な生活を観点にしたエッセー形式なので100年も前の話なのに、現代とも共通点が多い。
つまり、人間の本質めいた部分へ焦点を合わせているか ら、理解しやすい。

さて、幸福とはなにか?

人によって感じる幸福は違う。何かを食べる、見る、、する、感じる等同じ動作でも幸福を決めるのは自分である。

では、自分が全て幸福だとと思い決めれば解決するのではないか?

しかし、全てを幸福だと思い決めるのは無理やりで出来ないと思うだろう。サイボーグではないよなんて意見も出る。

ただ、そう意見には自分をつっかえさせる自分がいる。その自分に対して、落ち着いて
よく考えてみようと対話してゆくような形式と言えるのが幸福論である。

アランの文章をかりていくつか考察しよう

◆悲観主義は気分によるものであり楽観主義は意思によるものである。

つまり、気分にまかせて生きると悲しみにとわられる。そして怒りだす。気分とはいつも悪である。
だから、幸福とはすべて意思と自己克服である。

今は辛くて大変だけど明日は良くなる、明るくなるという期待を抱く。その時点で幸福という種を持っているという解釈である。
それが意思であり、自分で決め るということである。

◆幸福とは報酬など全然求めていなかった者のところに突然やってくる報酬である。

つまり、どっちにころんでもいいという見物人の態度を決め込んで、
ドアを開いて幸福よ入ってこいと言っても入ってくるのは悲しみである。

仕事であれ、活動であれ、趣味であれ与えられるのを待っているのではなく、自分から積極的に行動すること、
楽しくする事。好きでする趣味や仕事は楽しい。 意思の力で希望を持ち実現するために行動する。その中に幸福がある。

◆しあわせだから笑っているのではない。むしろぼくは笑うからしあわせなのだといいたい

つまり、笑いは病気を治したり、回復する力がある。幸せホルモンと呼ばれるセロトニンが近年解明されているが、
100年も前からアランは伝えていた。ある 専制君主が投獄しても、健康法のために笑うだろうというから凄い。
笑う事で心も少しずつ上向きになるという原理を考察していたのだから。

◆不機嫌という奴は自分に自分の不機嫌を伝えるのだ。

つまり、他者に不機嫌をぶつけても伝染して自分に返ってくる。例えば、
ここが悪いと伝えても伝わらない時に自分がもどかしいから不機嫌になりそれを相手に ぶつける。
ぶつけても、反応がなければよけい不機嫌に。伝えてもいい過ぎたと後悔した事があり、心が晴れずに不機嫌さがます。

気分とは伝染であり、喜びも悲しみも上機嫌も不機嫌も伝染する。じゃあ、身近な事でも笑いになればいいなと思い接する。レストランの店員にありがとうとい う。送り合う気持ちが周り巡って返ってくる。病人に見舞う時同情や心配を口調や表情で示すのは病人に悲しみをそそぐことで良くないと説く。生ある限り、生 きている。

病人は自分のせいで人のよろこびが消されはしないのを見ればその時彼は立ち直り、元気になるのだ。

◆幸福にならねばならない。自分の幸福を欲しなければならない。幸福は徳である

人に幸福を与えるには自分自身に幸福の種を持っていなければならない。あなたの幸福の種が幸せになれば周りも幸せにすることができる。その為には力いっぱ い生き、希望を抱き続け努力する。

☆以上のような格言を残しているのだが、聞いていると元気になるのではなかろうか?。生きようとするあり方次第で人生はいかにも変わる。そんな前向きな生 き方を参考にしてみてはいかがであろうか。

最後に私が着目した点として、アランは社交生活や訪問や儀式やお祝いがいつも好まれる。それは幸福を演じてみるチャンスなのだ。この種の喜劇はまちがいな くわれわれを悲劇から解放すると説く。

つまり、人生とは演じる事で不幸にも幸福にもなる。悲劇のヒロインを演じ続けるのはやめよう。喜劇を演じれば必ず、不思議と幸福になる。その為には自ら演 じる必要がある。

素敵な人生を演じよう。




元のページに戻る。